東京都より「インフルエンザの流行注意報発表に伴う予防及びまん延防止対策の徹底について」の周知依頼がありましたのでお知らせします。
作成者アーカイブ: HP担当陽光福祉会
【羽村市】児童の欠席連絡等について
2023年9月22日 金曜日投稿
事務連絡
令和5年9月22日
市内保育施設利用者 各位
羽村市子ども家庭部子育て支援課長
児童の欠席連絡等について
日頃より羽村市の行政運営にご理解とご協力をいただき誠にありがとうございます。
昨今、送迎用の園バスに取り残された子どもが亡くなるなど、大変痛ましい事案が全国で複数発生しています。
市では、国の発出した「こどもの出欠状況に関する情報の確認、バス送迎に当たっての安全管理等の徹底について(令和4年11月14日)」に基づき、各施設に対応を依頼しているところですが、施設において確実に児童の所在の確認を行うためには、保護者の皆様による利用施設への連絡が非常に重要になります。
欠席等の連絡なく登園されない場合は、当該園児の安否確認ができないほか、施設職員が所在確認のための対応に当たることで、通常の教育・保育業務に支障が生じる場合もあります。
ついては、適切な教育・保育のために、保護者の皆様におかれましては、利用施設を欠席したり、登園が遅れる場合には、各施設で定められた時間内に、必ず欠席・遅刻の連絡をしていただきますよう、お願いいたします。
また、施設からの出欠確認の電話連絡に応答できなかった場合は、必ず折り返しの連絡を行う等、施設と出欠状況に係る情報共有に努めていただきますよう、重ねてお願い申し上げます。
保育施設では、引き続き、子どもの安全を第一に保育を実施してまいりますので、保護者の皆様におかれましても、ご理解ご協力をよろしくお願いします。
ご不明な点等がございましたら下記担当までお問い合わせください。
【問合せ】
子育て支援課保育・幼稚園係
電話 042-555-1111 内線231
【にじいろWS 2023-9月】『顔』をテーマに
2023年9月18日 月曜日投稿
『顔』のもつ独特な魅力を、思い思いに表現してみよう!
今年(令和5年)3月、厚生労働省は〈マスクの着用は、個人の主体的な選択を尊重し、個人の判断が基本〉との方針を打ち出しました。
当園でもそれに準じて、保護者・来園者及び職員に対して同様の措置をとってきました。
しかし、およそ3年という長い期間にマスク着用が習慣化してしまったのか、マスク生活から解放された当初は、はずすことへの抵抗がありました。
それでも時間の経過とともに、この夏には若い世代を中心にマスク無しの生活に戻りつつあります。
そうしたなか、笑い話しのようで、ある意味切実な問題が生じていました。
それはニュースなどでも採り上げていましたが、3年間という長きにわたり互いにマスク姿でしか接してこなかった者同士が、待ち合わせにしても、偶然すれ違っても、互いに気づかずにあたふたしたというのです。
なんとか気づき、互いの顔を見合わせた瞬間、「はじめまして」と今更ながらあいさつを交わしたという話も聞きました。
こうなると、まさにお笑いのコントですね。
たかが縦約10cm×横約15cmほどの布で鼻先と口元を覆い、発する声も布越しで多少こもるとはいえ、それだけでひとの『顔』が判別できなくなるとは想定外でした。
こうした現状に、にじいろワークショップを企画・指導する松澤先生は、あらためてひとの『顔』とはなんだろうか、と考えたそうです。
自分のからだの一部でありながら、生涯自らの目で直接見ることができないものであり、喜怒哀楽に応じてその目、その口、そのすべてが変化し、それが相手に対して笑いや涙、ときには怒りを誘うという、これほど重要な部位はありません。
そして、それがあることで、常に互いを認識し合うこと、また好きや嫌いになることもあるのですから。
そんなことを考えていたある日、松澤先生はプライベートで「古代メキシコ展」を訪れ、そこで『顔』のもつ独特な魅力に気づかされたそうです。
「展示品のなかに古代の顔を模った仮面があって、その迫力または愛らしさに魅了され、それをずっと見ていたら、日本の古代の仮面にも通じるものがあるように感じたのです。
そう思ったら、人間って、国や人種に関わらず、太古より顔を意識し、顔を描き、顔をつくり、そこに呪術や祭事、芸能などといったさまざまな物語を語りつないで来たのだなぁ、と実感しました」
先生は感慨深げに、こう話してくれました。
そこで今回のにじいろワークショップは、マスクはずしの今とも重なる、『顔』をテーマに展開するアートワークとなりました。
もちろん子どもたちには先生が着目したテーマにある真意などは伝えませんが、子どもたちそれぞれが思い思いの『顔』を表現していくことで、自ずとなにかにたどり着くはずです。
段ボールの顔型キャンバスに、塗って、貼って、そこに描かれたのは・・・?
まずは創作の準備です。
不要な段ボール箱をいくつか用意し、箱を形づくる平らな面を切り離していきます。
それを子どもたちの人数分確保したら、その1枚1枚に均等の大きさで顔型の円を描き、ハサミで切り抜いていきます。
そうして出来上がった顔型の厚紙(段ボール)が、今回の重要なキャンバスになります。
次に、絵の具の黒・茶・黄・緑色を溶き皿にそれぞれ取り分け、さらにそこへ木工用ボンド(白色)を加えます。ボンドが加わることで、色が素材に定着しやすくなるとともに、素材と素材を貼り合わせることができます。
さらに素焼き調ねんどを用意しました。
これは、凹凸のある眼球や唇、最も突起している鼻などを表現するためですが、必要な分だけ指先でちぎれますし、簡単に好きなかたちに変わるので子どもたちには最適な素材となるでしょう。
また、先ほど顔型を切り抜いた段ボールの切れ端部分も素材として活用しました。
これでもろもろの準備が整いましたが、これらを見ればすでにおわかりのように、今回は平面を土台に創作していきますが、仕上がりは実際の『顔』を意識した、立体的な表現を目指して進めていきます。
では、いつものように年中クラスからスタートです。
今回は最初にプロジェクターを使い、スクリーンにさまざまな『顔』を映し出してワークショップをはじめることにしました。
一番に映し出されたのは、猫の顔写真です。
そのとき、先生は意図的に猫のお面をかぶりました。
これは本題への伏線ですが、子どもたちにはそんな説明をしないので、先生のその行為にただただ笑いが巻き起こりました。
そしてスクリーンにはいくつかの動物の顔写真が続き、やがてひとの顔に変わり、最後は古代遺跡から発掘された仮面が映し出されました。
ひと通りそれらの映像を投影したところで、先生は
「今日は、いま見てきたような『顔』をみんなにつくってもらいます」と告げました。
ところが年中クラスの子どもたちは、そう言われても・・・と、困惑気味の表情を浮かべるばかり。
でも先生は心得たものです。
最後にスクリーンで見せた古代の仮面のようなお面を取り出し、目の前の子どもの顔にかぶせてみました。
スクリーンから抜け出たようなそのお面に、びっくりしながらも興味津々の様子。
先生はすかさず、
「こんなお面をかぶったら、どんな踊りをするかな」と問いかけました。
すると、その子もとっさになにかを感じたのか、自らお面をつけて奇妙なリズムを刻みながら踊ってみせました。
それを見たまわりの子どもたちは大笑い。
それからいく人かの子どもたちがそのお面をかぶって、同様に即興で踊りました。
「こんなお面をつくりたくない?」と先生が再び問いかけると
子どもたちは一斉に「つくりたい!」と大声で答えました。
回りくどい説明は不要です。
先生はこうして、子どもたちをいつの間にかその世界にいざなっていきました。
さて、ここからかが本題です。
先生は子どもたちをフロアーの端に集めると、顔型に切り抜いた厚紙を1枚床に置き、お皿に溶かれた絵の具と筆を巧みに使って、ちょっとマンガチックな目、鼻、口、眉毛などをそこに描き出しました。
またそれぞれの部位に対して、段ボールの切れ端を貼り付けて髪やヒゲにしたり、ねんどで目や鼻の位置に盛り付けて立体的にするなど、さまざまな技法を見せていきました。
そのおもしろさを間近に見ていた子どもたちは、もういてもたってもいられません。
ひとりひとりが顔型に切り抜いた厚紙を手にしてそれぞれのテーブルに戻ると、誰もが一気に創作活動に没頭していきました。
かっと見開いた目を強調する子や、りっぱな鼻にそのまわりをひげだらけにする子。
下地が見えなくなるまで顔全体をいろいろな色で塗り込める子、段ボールの切れ端をツノのようにいく枚も頭部へ貼り付ける子もいます。
ついには、これってひと?動物?はて・・・??と疑問符だらけのような『顔』をつくる子などなど、もはやおとなの想像をはるかに超えた表現があちらこちらで見られます。
こうなると、ホールのなかは子どもたちの起こしたアートの嵐がぐるぐる吹き回って、それをのんきに眺めていたら、あっという間に外へ押し出されてしまいそうな雰囲気です。
理屈ではなく、純粋に子どもたち自らが到達した特別な世界
年長クラスのはじまりも、プロジェクターを使ってさまざまな『顔』を映し出すことからはじまりました。
ただし年長クラスの子どもたちは、見終わるとすぐにフロアーの隅に集まり、先生から創作についての具体的な技法などの指導を受けました。
特に下地をしっかり塗ることを奨励しました。そのことで、段ボールという素材観から離れ、新たな発想が生まれやすくなるからです。
先生は年長クラスの子どもたちについてこう話します。
「この子たちは一年半という経験値があるから、はじまりだけきちんと説明して、肝心なところだけをフォローすれば、あとは最後まで子どもたちに任せてもいい、むしろその方が、こちらが想像するよりもはるかにおもしろい作品にたどり着くと思っています。
子どもたち自身にとっても、そうしてたどり着いた作品だからこそ、新しい自分を発見できることがいっぱいあるんじゃないかな」
年長クラスの子どもたちは、はじまりこそあらかじめ予想した通りの仕上がり具合いでしたが、つくり込むうちにそれぞれに個性的な表現が目立ちはじめました。
ついには、ひとりひとりの『顔』がまったく予期せぬ方向へと動き出し、色もかたちも総体的な表現も、目を見張るほどの作品へと変貌していきました。
結局、年中・年長クラス共に最後にたどり着いた作品は、1枚たりとも予定調和のものはなく、意外性に満ちた多種多様な『顔』となりました。
もちろん作品づくりの過程において、その技法や素材選び、全体の構成など細かな点では年中クラスと年長クラスに差が生じるのは仕方ないことですが、それは年齢による経験の差であって、本質の部分ではどちらも評価は高いものです。まあ、アートに関していえば、誰かの評価など無意味なことですが。
そしてワークショップの終わりは、年中・年長クラス共に作品を1カ所に並べて展示し、それをみんなで眺めました。
自分の作品を客観的に眺めることで何かを感じ、またお友だちの作品を見て何かを感じる、さらにそれら全体から大きなものを感じとる、それが一番大事なことではないかと思います。
そこで先生は年中・年長クラス共に、もうひとつだけ子どもたちにこんな提案をしました。
「ここに並べた作品は、まだ絵の具が乾いていないから展示したままにするけど、もし自分が自分のつくった『顔』をお面としてかぶったら、どんな踊りをするのかな?頭のなかで想像して、踊ってほしいな、どうかな、できるかな?」
子どもたちはそんな先生からの突飛な提案に最初は驚いていましたが、そのうちひとり、またひとりと自分の作品を頭に描きながらドタバタ、クネクネ、フラフラと楽しそうに踊りはじめました。
気づけば踊りは全員にひろがり、それを見ていた先生までもが大げさな振りで子どもたちの輪に加わっていきました。
年中・年長クラス共に同じように飛んだり、跳ねたりの大さわぎです。
その光景は、まさに仮面をつけて神事や祝いの儀式のために踊り出した古代人のようでした。
そうこうするうちに、ひとりひとりの子どもの顔に、無いはずの「顔」のお面がいつしか見えてくるから不思議です。
きっとこの瞬間、子どもたち誰もが、ところ狭しと並んだたくさんの『顔』がつくり出した特別な世界に、こころから入り込んでいたのかも知れません。それは理屈ではなく、純粋に、自分たちがつくり出した『顔』に自らインスパイアされたからこそ到達した世界だったのではないでしょうか。
人間として生きる以上、無意識に作品がプリミティブになる
当初、『顔』という漠然としたテーマに子どもたちはどう対処していくのだろうか、または対処できるのだろうか、と少し不安な気持ちを抱いていましたが、最終的な着地点を見て、まさに〝下手の考え休むに似たり〟と反省しきりです。
それではここで、松澤先生からの総括及び感想を聞いて本稿を閉じることにします。
「今回は敢えて、誰かの『顔』を描くというテーマにはしませんでした。だから自画像ともちがいますし、目の前の相手(友だち)を描いたわけでもありません。
誰もがおそらく潜在的に持っているだろと思われる『顔』のイメージを、具体的なかたちに表現したらどういうものが出てくるのか、という試みでもありました。
結果、年中・年長クラス共に誰もが、みごとに自分のなかの『顔』をつくりあげてくれました」
そう語った先生は、さらにこのようなことに言及しました。
「子どもたちの完成された『顔』を見てハッとしたのですが、ここに並べられたどの作品も突き詰めていうと古代から脈々と受け継がれてきた仮面に残されてきた『顔』そのものなんですね。
無意識に創作を進めるうちに、作品がどんどんプリミティブ(原始的な、根源的な)になっていった。
そこで確信したのですが、これって、人間だけがもつ『顔』に対する認識であり、本質ではないのか。
地球上のあらゆるひとは、人間である以上、何百年、何千年とどれほど社会や時代が進化しても、この認識だけは変わらないといえるんじゃないかって。
それから最後、仕上がった『顔』の仮面をかぶったと想定して、それを思い描きながら踊ってほしいと提案したら、誰もが躊躇することなく奇妙な踊りを披露してくれたでしょ。
それもある種、『顔』という仮面が成せることであって、多分太古のひとたちも、そうやって仮面をかぶった途端に踊り出したのかもしれない。
そんな風にいろいろと考えてみたら、本当に『顔』って奥が深くて、不思議なものです」
先生の言葉を聞いて、十年ほど前に遡りますが、こんなニュースを想い出しました。
それは2013(平成25)年5月、奈良県の大福遺跡で2世紀後半のものとみられる〈木製の仮面〉が見つかったというものです。調査の結果、木製としては国内最古の仮面だということでした。
確かに、今回の子どもたちの『顔』はそれに類似しているといっても差し障りがないように思えます。
人類が誕生してわずか2世紀につくられた『顔』と、21世紀のいまを生きる子どもたちが表現した『顔』。
こんな壮大なアートワークを感じることができるワークショップって、そうそうありませんよね、
ドキュメンテーション
「顔」をテーマに
3年続いたマスク生活が終わりを迎え、おとなたちもマスクをはずし、「顔」が見えるようになりました。
マスクで顔が隠れている状態が長期的になるにつれて、幼少期の子どもにとっても顔が見えないことを懸念することが話題になることもありました。
実際には影響が出てくるかわかりません。しかしながら、久しぶりに見る顔に親しみを覚えたたり、その表情にハッとすることがあります。
古代メキシコ展に行きましたが、そこで見る仮面の顔の迫力や可愛さ、それは日本の古代の仮面にも通じるものがあります。人間は太古より顔を描き、顔をつくり、そこに祈りや物語をのせました。
顔って面白い、顔が見えるいま、顔について制作してみます。
written by OSAMU TAKAYANAGI
【消費者庁】水筒を持ち歩くときの転倒事故に注意!
2023年9月4日 月曜日投稿
消費者庁より「水筒を持ち歩くときの転倒事故に注意!」との内容で下記の注意喚起が出されました。
これまで保育園でも、子どもが水筒を持ち歩く際に下記注意ポイントと同様の対応を行っていましたが、今後もさらなる徹底を行っていきます。
保護者の皆様には、お子様の水筒をご用意いただく際に、金属製のものは避け、出来るだけ柔らかい素材のものをお選びいただくようお願いします。
残暑が厳しく、まだまだ水分補給が欠かせない時期が続いています。出掛ける際、子どもが水筒を持ち歩く機会も多いと思いますが、転倒した際に首や肩に掛けていた水筒がお腹に当たり、内臓を損傷する等といった思わぬ事故が発生しています。
消費者庁・国民生活センターには、水筒を持ち歩く子どもの転倒事故についての情報が、医療機関(※1)から寄せられています。
「水筒(1リットルの容器)を斜め掛けにして歩いていたところ坂道で転倒し、地面と水筒に挟まれる形で腹部を強打した。脾損傷のため集中治療室に入院し、保存加療で10日後に退院した。」(9歳)(※1)
「通学中に友人と追いかけっこをしていたところ転倒し、斜め掛けしていた水筒が腹部の右側に当たった。痛みと嘔吐があり救急搬送され、小腸破裂、汎発性腹膜炎のため緊急手術の上、集中治療室に入院した。」(10歳)(※1)
「登校中、走っていたところ硬い土の場所でつまずいて転倒した。その際、首から提げていた水筒が、地面とお腹の間に挟まり、腹部を強打した。内臓損傷により、膵臓50%程度及び脾臓を摘出した。」(7歳)(※2)
子どもは転倒しやすい、転倒した際に反射的に手をつくといった動作が取りにくい等の特徴があります。また、子どもは腹部臓器の占める割合が大きい、お腹周りの筋肉が弱い等の理由から、腹部に外から力が加わった場合に内臓損傷が起こりやすいとされています(※2)。
よって、水筒を首や肩から掛けていると、転倒した際、上記事例のように水筒が腹部に当たる可能性があるため危険です。
このほか、水筒のひもが首や腕に絡まったり、遊具等に引っかかったりすることにも注意が必要です。
子どもに水筒を持ち歩かせるときは、以下のポイントに注意しましょう。
◎水筒はなるべくリュックサック等に入れましょう
◎水筒を首や肩に掛けているときに走らないようにしましょう
◎遊具等で遊ぶ場合は、水筒を置いて遊ぶようにしましょう
熱中症予防に役立つ水分補給の道具に思わぬ危険が潜んでいます。転んだときの危険性について日頃から子どもに教えておくことが大切です。
※1: 消費者庁は(独)国民生活センターと共同で、平成22年12月より、医療機関(令和5年8月現在で32機関が参画)から事故情報の提供を受けています(医療機関ネットワーク事業)。
※2: (公社)日本小児科学会Injury Alert(傷害速報)「No.059 水筒による膵外傷」(PDF)
(過去の関連メール)
【東京都】ベランダ等からの子供の転落事故防止について
2023年9月4日 月曜日投稿
ベランダ等からの子供の転落事故防止について
子供が保護者の目の届かないところでベランダに出て、エアコン室外機などを足掛かりに手すりを乗り越え、転落する事故が発生しています。例年、自宅の窓を開ける機会が増える春先や初秋に、事故が発生する傾向があります。
ご自宅で過ごす時間が多くなる連休中も、お子様たちが元気に安全に過ごせるよう、ベランダや窓のそばに子供の足場になるようなものが置かれていないか、子供の遊び場になっていないか、この機会に改めてご確認をお願いいたします。
【参考】
〇「子供のベランダからの転落事故に注意!」(平成30年3月・東京都生活文化局)
https://www.shouhiseikatu.metro.tokyo.jp/anzen/kyougikai/h29/documents/29_leaflet_balcony.pdf
〇東京都公式動画チャンネル「東京動画」~STOP! 子供の転落事故~
子供がベランダの手すりの高さまで素早くよじのぼっていく実験映像や、転落事故を防ぐポイントを紹介しています。ぜひご覧ください!!
【にじいろWS 2023-8月】木を立てよう
2023年8月13日 日曜日投稿
自然から受ける刺激って、たくさんこころに響くものがあるんだなぁ
木が たくさんあるのは いいなあ。
木が そらを かくしているよ。
木は、川べりにも たにそこにもはえる。
おかのうえにも はえる。
木がたくさんはえると、森になる。
森はいつも いきいきしている。
『木はいいなあ』偕成社発行より
8月のテーマは「木を立てよう」です。
にじいろワークショップを企画・指導する松澤先生は、このテーマの発端についてこんな話をしてくれました。
「最近、涼しさを感じはじめた夜になってから、気分転換も兼ねて散歩をしているんですよ。昼間は外出もそうそうできないですからね。
そんなときに、空の星や月を眺めたり、風を感じたり、道路沿いや公園に立つ木々に手を触れたりしてね、葉や枝のこすれ合う音が聞こえたり、その木々のまわりには小さな生きものも居たりするでしょ。
そうしていると、頭のなかにイメージがどんどん広がっていく・・・ああ、自然から受ける刺激って、こんなにもたくさんこころに響くものがあるんだなぁと、つくづく思うんです」
そんな日々の体験に触発されてか、今回は子どもたちと一緒に、ホールいっぱいに「木を立てよう」と考えたそうです。
この話を聞いたとき、一冊の古い絵本を想い出しました。
ジャニス・メイ・ユードリイさん・作、マーク・シーモントさん・絵、西園寺祥子さん・訳の絵本『木はいいなあ(原題:A TREE IS NICE)』です。
冒頭に掲げた数行の文章が、はじまりのページから抜粋したものです。
この本は、まさに先生が話してくれたような「木」のことを簡単な短い言葉と、素敵な木々のある情景のイラストで描かれています。
作者のJ.M. ユードリイさんは、シカゴ市の保育園に勤めた経験があり、そのときに絵本の楽しさ、大切さを知り、作品を書くようになったといいます。
偕成社で初版刊行されたのは1976(昭和51)年ですが、原書が刊行されたのは1956(昭和31)年ですから、いまから65年以上も前の絵本です。
幼児向けの絵本ですが、とても大切なことがわかりやすい言葉で綴られていて、おとなが読んでもちょっと考えたり、頷いたり、幼かったころの風景がよみがえってきたりして、やさしい気持ちにさせてくれます。
おそらくみなさんも、「木」についてのたくさんの物語や想い出をお持ちのことと思いますが、はたして今回、子どもたちの手によってどのような「木」がホールいっぱいに立ち並ぶのでしょうか。
いつものホールが、ここでしかない〈あおぞらの森〉に変わる
まずはじまりの準備ですが、今回はまったくゼロからのスタートではなく、子どもたちにある程度いつもと違う世界(空間)のイメージを与えようと先生は考えました。
そこで、あらかじめ四つ切サイズ(約390×540mm)の茶系画用紙を用いて、長い部分のサイズをその高さとし、短いサイズの部分を丸めて貼り合わせ、1本の筒状のものを子どもたちの人数分つくり、それをホールの床面に1本1本ランダムに立たせて置きました。
それだけで、なんだかどこか別の世界に迷い込んだような雰囲気です。
子どもたちがこのホールに入った瞬間、この景色にどんなイメージを持つのでしょうか。
最初は年中クラスの子どもたちです。
案の定、ホールのなかの見なれない景色に、誰もが一瞬息を飲むのがわかりました。
それでも、すぐさまそれぞれに声を発しました。
もちろん、ひとりひとり感じ方も見え方も違いますから、戦々恐々とする子がいれば、不思議そうに凝視する子や「なんだなんだ」と興味津々で騒ぐ子もいます。
なかにはいきなり「木?」と言い当てる子もいたりして、それぞれの反応は千差万別。
でも、あきらかに日常とは違う空間だということを感じるとることが大事ですから、答えなんてどうでもよいのです。
先生は、茶色の筒状のものが立ち並ぶ光景を一望できるホールの端に子どもたちを集めました。
そして、それがなにを意味するかの説明の前に、子どもたちにその筒状のものの間をかけ抜けて向こう側に行くよううながしました。
子どもたち誰もがランダムに置かれた茶色の筒状のものに当たらぬよう、慎重にかつ夢中で向こう側に走り出しました。
上手に走り抜けた子も、途中で腕や足がそのものに触れて倒してしまい、慌てて立て直す子もいますが、誰もが本気でその行為を楽しんでいました。
そんなことを数回繰り返すうちに、子どもたちはその筒状のものに対して、最初に受けた特別な印象が遠のいてしまったようです。
第一印象は空間のなかに浮かび上がる全体像としてその素材をとらえ、次に身近な素材として対峙していければいいのです。
実際には手元でつくるものですが、最終的に全体像となったときにどのように見えるのかをイメージできることも大事なことですから。
先生は子どもたちを集めると、その茶色の筒状のものを1、2本手に取り、腕を通したり、頭に乗せたりして、おどけながら子どもたちの意識をひとつの素材としてとらえるように見せていきました。
さあ、ここからが本番です。
先生は子どもたちに今回の趣旨をわかりやすく、ていねいに説明しながら、基本的なつくりかたを教えていきます。
茶色の筒状のものの先端に2か所ハサミで切り込みを入れて、その切り込んだ部分を外に向かって折り、枝のようなものをつくりました。
その枝のようなものに、葉っぱのかたちに切り出した緑の色紙を貼り付けました。
すると、1本の、どれも同じだった茶色の筒状のものが、枝と葉っぱのついた本物の木のように見えてきました。
そうしていくつかの工作見本を見せると、子どもたちはもうそれ以上の説明は不要!といわんばかりに、すぐに制作モードに突入しました。
床面に立ち並んだ茶色の筒状のものを子どもたちは1本ずつ手に取ると、先生が見本を示したようにハサミで切り込みを入れて枝にし、そこに用意した緑色の葉っぱを貼り付けていきました。
もちろん、このワークショップで鍛えられた子どもたちですから、そのうちさまざまな色紙を選んで、おもいおもいのかたちに切り抜き、枝の部分や胴体の部分にまでそれを貼り付けました。
また、その色紙に好きな絵を描いて貼り付けたり、胴体そのものにも絵を描きだしていきました。
こうした独創性はどこから湧いて出てくるのでしょうか。
こんな子どもたちを見ていると、おとなの発想力の乏しさに哀しくなるときがあります。
当たり前のことですが、自然にはえている木が1本と同じ木がないように、子どもたちのつくった木も1本と同じ木はありません。
20人いれば、20本の木ができ上がります。
それを最後に一か所に集めてぜんぶ並べてみました。
かわいらしい木、たくましい木、ちょっとへんてこな木、どことなくおもしろい木。
色々な木が集まって、気づけばどこにもない、ここだけの〈あおぞらの森〉になりました。
想像してみよう、きみの木は老いた木?若い木?それとも・・・
年長クラスがはじまる前に、年中クラスのつくった木はいったん片づけました。
年中クラスの子どもたちと同じように、茶色の筒状のものだけをホールの床面に1本1本ランダムに立たせて置き、いつもと違う世界(空間)のイメージを与えるためです。
やはり子どもたちの反応は千差万別。
でも、年長クラスの子どもたちはもっと積極的にそのものとの距離を縮めようとするかのように、指示をする前から指先で触れたり、持ち上げようとする子もいました。
そこで先生は、年中クラス同様に茶色の筒状のものが立ち並ぶ光景を一望できるホールの端に子どもたちを集め、同じくそのものが立ち並ぶ間を縫って向こう側に行くよううながしました。
器用に1本1本の間をすばやくすり抜ける子もいれば、なかにはそのものにわざと接触して倒していく子もいます。
どちらにしても、そのものとの関係性を意識しているからこそのことでしょう。
年長クラスの子どもたちは一年間の経験を経ているので、それがただそこに置かれているだけのものではないことに気づいています。
先生は、やはり子どもたちを集めて今回の趣旨を説明しました。
それから年中クラスと同様に茶色の筒状のものの先端に2か所ハサミで切り込みを入れ、その切り込んだ部分を外に向かって折り、枝のようなものをつくりました。
その際、年長クラスの力量を考慮して、ただまっすぐに折るだけではなく蛇腹のように段々をつけたり、変則的に折り曲げたりと、ひと工夫手を加えることでもっと動きのある枝になることを教えました。
その枝にも葉っぱだけではなく、自由な発想で好きな装飾を施すようにいいました。
そうそう、胴の部分にも切り込みを入れて、小さな窓をつくる方法も。
また先生は、年長クラスのこどもたちに、
「木にもいろいろあると思うよ、おじいさんやおばあさんのような年寄りの木・・・」
と新たなイメージのヒントを話し出すと、いきなりひとりの子が
「じゃ、若い木をつくろう!」と声をはりあげました。
先生は笑いながら
「いいね、ほかにもおかあさんの木、あかちゃんの木、おこりんぼうの木や泣き虫の木とか」
とさらにイメージを付け加えて、まるでいくつかの木の物語を話すように説明をつづけました。
技術的な方法などを細かく教えたせいか、さすがに年長クラスの子どもたちの木は、かなり凝ったものに仕上がっていきました。
切り込みを入れて折りこむ枝も、ほんとうにさまざまなかたちになり、風や振動に揺れていました。
その枝に付けた葉っぱも色とりどりで、なかには蕾や花まで付けています。
カブトムシでしょうか、クワガタでしょうか、色々な昆虫たちがたくさん木に住みついています。
それも表面ばかりか、木の内側(筒状のなか)にまでそのすがたが見えます。
胴体に入れた切り込みの小窓から、花や鳥が顔を出しています。
驚いたのは、木の胴体から地表に向かって川が流れ出していました。
そうですよね、木も川も大地もみんなひとつの自然のなかで生きているのですから。
あれ?ポケモンまでいますね!
最後に、年長クラスの子どもたちの作品も一か所に集めて、もうひとつの〈あおぞらの森〉をつくりました。
そして今回もすべてのワークショップが終わった後、年中・年長クラスの子どもたちの木(作品)をぜんぶまとめて、園のエントランスに設けられた図書スペースのひな壇に展示しました。
後日、担当の保育士から「その日のお迎えの時間に、お家のひとに一生懸命自分の作った作品を紹介していたんですよ」と聞きました。
そうですよね、子どもって、自分の家族に一番自慢したいし、一番ほめてもらいたいですものね。
にじいろワークショップって、終わったあとも、子どもたちにとってはいつまでもつづいているのだということを知りました。
木を1本つくることは、そこにひとつの木の物語を表現すること
再び冒頭の絵本『木はいいなあ』(偕成社発行)に戻りますが、終わりはこんな言葉で締めくくられています。
木をうえると いいよ。
(中略)
なえぎは まいとしすこしずつ おおきくなっていく。
そしたら、みんなにいうんだ。
「この木、ぼくがうえたんだよ。」って。
そうすれば みんなも、
いえにかえって
じぶんの木を うえるよ。
当園の子どもたちも帰り際に、「ぼくがうえた(つくった)んだよ」と言ったことでしょう。
そして、大きくなったらほんとうに自分の木を植えてくれるかもしれません、未来の地球のために。
今回のにじいろワークショップのテーマについて、あらためて松澤先生に伺いました。
「イタリアの美術家で、ブルーノ・ムナーリ(1907-1998年)というデザイナーや絵本作家としても活躍した方がいらして、その著書に『木をかこう』という絵本があります。
ただ単に木の描き方を指導する本ではないので、解釈の仕方も色々あって、子どももそうですがおとなにとっても深く考えさせられる本なんですね。
これをベースにワークショップができたらおもしろいかな、と考えてはいるのですが、実際にはかなり難しいので、それは私自身の宿題でもあります。
そんなことや、日常で体感する自然のことなどを漠然と考えていたら、平面ではなく立体的な木をつくろう、それもいつものホールを子どもたちのつくった木で埋めつくしたら、きっと新しい景色が目の前に広がるんじゃないか、ということで今回のテーマに至りました」
先生の発想は、いつもワンステップ、ツーステップと跳躍していくので、いつもわくわくさせてくれます。
さらに先生は話しをつづけて、
「具体的な指導ということでいえば、年中クラスの子どもたちは、なによりも今は技術的な成長を優先しているので、造形のおもしろさを感じながら折る、切る、貼るといった基本的な動作を確実に習得してもらいたいと思っています、それがまた来年につながっていくので。
年長クラスの子どもたちはそうした基本的な動作を習得してきたものとして、つぎに目指して欲しいのは作品がもつ物語性というものを意識した制作づくりということです。
言葉で示すと難しく聞こえますが、それはなにも難しい要求ではありません。
一過性のあそび感覚で楽しむことも大事ですが、せっかくワークショップという特別な時間を設けて参加するのですから、作品の背景に自分だけのもので良いので、なにかつくる意味を持ってもらえたらいいかな、ということです。
でもそういう意味でいえば、今回は誰もが木の物語を十分に意識してつくり上げたんじゃないかな。
1本、1本がほんとうに個性的で、オリジナル性に富んでいたし、どの子も自分のなかから感じたり、想像したりしたものをしっかりとかたちにしていましたからね。
だから自分だけの1本の木に愛おしさを持ち、自分だけの木の物語をそこに表現できたように思います」
余談ですが、今回のワークショップに参加して、〈芸術は、自然との対話である〉という言葉を思い出しました・・・誰の言葉だったかは忘れましたが(失礼)。
ドキュメンテーション
木を立てよう
ブルーノ・ムナーリの著書に『木をかこう』という本があります。
いつかこのワークをしたいと思っているのですが、ワークの構成が決められないままでいます。
そこで今回は、ホールに木を立ててはどうかと思いました。
一人一人の木がホールに全部で50本ほど立てることができたら、そこにはまた新しい景色が生まれそうです。
紙を立てる、切る、折る、そんな基本的な紙との向き合い方をしながら、ホールを夏の林のように感じられたら面白いなと思います。
木から生まれる、夏の林の物語を制作できたらと思います。
written by OSAMU TAKAYANAGI
【一般】「子どもの発達・ことば個別相談会」を実施します!!
2023年8月13日 日曜日投稿
「ことばの遅れを指摘された」「吃音が出てきたみたい」「発音の間違いが気になる」など、お子さんのことばに係わる悩みや心配に、言語聴覚士がお子さんの様子を観察しながらお答えします。
- 実施日時
- ① 2023/9/12(火) 9:00~17:00 ※申込締切 9/5(月)
② 2024/3/12(火) 9:00~17:00 ※申込締切 3/5(月)
※相談時間は40分程度となります。
※相談にはお子さんと一緒にお越しください。 - 相談場所
- 発達支援Kiitos羽村 相談室
(羽村市五ノ神3-15-11 コスティール沖201) - 相談員
- 中塚誠先生(言語聴覚士・発達支援Kiitos羽村アドバイザー)
言語聴覚士の養成校で常勤講師として働きながら、付属する「ことばの指導相談室」で11年間臨床を行う。現在はフリーとして保育園や幼稚園、特別支援学校を訪問し、支援者や保護者への支援や講演を行いながら自治体のことばの教室で臨床を行う。 - 料金
- 無料
社会福祉法人陽光福祉会の地域貢献事業として実施しているため、料金は一切かかりません。 - 申込方法
- 下記アドレスの申込みフォームからお申し込みください。
https://forms.gle/JzzydQXyojeJ7a2k6
【にじいろWS 2023-7月】ボディペイントを起点に、新たな〈アート〉体験を
2023年7月19日 水曜日投稿
ベースはボディペイント、でもそこからの着地点は新しい体験です
あまりにも連日のことで、すでに耳慣れたというのが「酷暑」という言葉。
でも、これって気象庁が正式に定義したものではないとか。
気象庁の予報用語では、一日の最高気温が35℃以上の日を「猛暑日」と定義しているのですが、一日の最高気温が40℃以上の日を「酷暑日」と呼んでいるのは日本気象協会という一般財団法人の方々らしいのです。
1875(明治8)年に気象における国内での統計を開始してから、40℃以上の暑さを観測したのが70回弱。
そのうちの60回近くがこの20年ほどの間だといいます。
この数字を見ると、近年になってから異常気象が急激に増えたことがわかります。
気象の上からも、子どもたちの未来をしっかり考えていくべき時なのかもしれませんね。
冒頭から話が逸れましたが、本格的な夏を迎えた7月のにじいろワークショップも、この「酷暑」の影響で本来は屋外で行う予定の内容でしたが、急遽室内のホールに場所を変更しました。
さて、今回のにじいろワークショップですが、実はおととし(2021年9月)に「ボディペイント」と題して行っています。
ですから、いまの年長クラスの子どもたちでさえ未体験のワークショップです。
しかし、そのままを踏襲するだけでは・・・と、にじいろワークショップを企画・指導する松澤先生は考え、前回の経験を踏まえ、「ボディペイント」をベースにもうひとひねりして、前回とは異なる新しい体験を子どもたちにしてもらおうということに。それも、年中クラスと年長クラスそれぞれに方向性や着地点を変えて。
なので、今回は太陽の陽射しをガラス越しに受けながらですが、子どもたちにとっては前回のものとは違う、まったく新たな体験となったはずです。
子どもたちが描いたのは、海の世界から一転して独自の世界へ
準備は前回の「ボディペイント」同様に、彩色用の絵の具とその容器、そして絵筆を数十本用意します。
絵の具には素肌に付いた絵の具を洗い落とすのに効果のあるボディソープを混ぜ合わせますが、いまは一般的に流布されているこの手法、実は松澤先生がかなり前から実践していたとのことです。
ひょっとして先生が発案者?との質問に、「そうかも」と笑って答えてくれました。
そして、急遽屋内で行うことになったので、先生と保育士たちはいつものホールの白い壁と木の床一面を養生シートで覆いました。
壁には透明なシートを貼り、床には大きなブルーシートを敷いて、その上にさらに透明なシートを3か所に分けて貼りました。
もちろん子どもたちには、あらかじめ汚れてもよい服装で参加するように促しておきました。
まずは年中クラスの子どもたちです。
ホールに入るなり、床に敷き詰められた、まだ真新しいブルーシートを見て歓声が上がりました。
「プールみたい!」
「水族館?」
「海だよね」
と、その鮮やかなブルーに触発されての自由な発想です。
まだ先生はそのことに触れていないのに、子どもたちの想像力は一気に言葉になって表れます。
なかには、そのブルーシートの上に貼られた透明のシートの上に腹ばいになって、すいすいと泳ぐ真似をする子もいます。
そこで先生ははじめて、このブルーシートは「海です!」と宣言しました。
そして「海だから、波を描きますね」といって、3枚の透明なシートそれぞれに波を白の絵の具で描きました。
「では、そこに魚を泳がせます」と言って、今度は小さな魚の絵をそれぞれのシートに描きました。
ここまで描けば、子どもたちにとってもうここは広大な海です。
それからは説明など要りません。子どもたちは目の前に用意された絵の具を使って、それぞれに自分が思う海の中を描きはじめました。
色とりどりの小さな魚の群れ、クラゲかな、タコかな、大きなクジラの姿も。
ゆらゆらと見えるのは海藻でしょうか、海のなかに咲く花々かな。
陽射しを受けてキラキラと輝くいくつもの波のようす。
ところで、テーマであるはずの「ボディペイント」は?
と思って子どもたちを見ていたら、なんとあちらこちらで子どもたちは自らの手のひらから足の裏まで絵の具を塗りはじめ、その手や足は透明なシートの上にどんどん押し付けられていき、さっきまで描いていた海のきれいな景色が、想像をはるかに超えた独自の世界へと一転していました。
子どもたちのボルテージはますます上がり、両手に塗った絵の具をシートの上でぐちゃぐちゃにこね回したり、自分の両足や衣服にまで彩色することだけを楽しむ子も出てきました。
さっきまでの海の世界はどこに行ってしまのだろう、そんな疑問を抱き先生を見ると、先生はそんな子どもたちを当然かのように静観していました。
「私から何かを言うまでは自由にのびのびとやっていいんだって、子どもたちは暗黙のうちに了解しているんですよ」と、先生は何事もなかったよう平然と言います。
これまでこのワークショップに参加してきた子どもたちだからこそ、こういう展開になることをあらかじめ予測していたのでしょう。
先生は、続けてこう話しました。
「自発的に次々と思うままに筆を動かし、手を動かし、気づけばからだ全体でその制作活動に入っていく。
それがアートワークというものでしょ。
だから、子どもたちは誰かに指示されたり、ましてや強制されたわけではなく、無意識のうちにアートワークを行っているということなので、それこそ本能の赴くままにアートに向き合っているということです。
アートワークで一番重要なのは、自らの力で何を描きたいか、何を表現したいかを探ることで、それにはど
んなかたちであれ、自らあれこれと実践していく以外にはないのです。
それが例え、最初の作品を壊すことになっても」
そういう意味でいえば、この状態で終わりにしてもいま述べたことは十分に体得したことになります。
ところが先生はここでもうひとつ上の、〈アート作品〉へと昇華させるための新たな展開を提示しました。
それは、すでに透明シートの上でぐちゃぐちゃに塗り込められた色のかたまりの上に、指先を使って好きな絵を線画で描き、さらにその絵を黒画用紙に写し取るというものです。
先生はまず手本として、ひとかたまりの色の上に、ひとの笑顔をかたどった花の絵を描いて見せました。
そして、その絵に黒画用紙を被せて固定し、用紙の上を均等になでました。
そう、ちょうど版画を刷るときに用紙をなでるように、ゆっくり、しっかり、まんべんなく。
それから、そっとその黒画用紙をはがしていきます。
すると、そこには先に描いた線画と下地に塗られた色の模様が写っていました。
しかもそこに写し取られた線画と模様は、まったく予期せぬ絵柄となって表れたのです。
子どもたちは各自の目の前に色のかたまりをつくり、それぞれそが思い思いの絵や模様を描きはじめました。
今回の最終課題へのチャレンジはみごとに成功し、各自が黒画用紙に〈アート作品〉として自分を残すことができました。
実は、年中クラスの子どもたちが退室した後、もうひとつ子どもたちが作品を残していたことに先生は気づきました。
次のクラスの準備のためにぐちゃぐちゃに彩色された透明のシートをはがしたときに、先生がそのシートを見て「ここに残されたものもアートだね!」と言い、白い壁にそれを飾るように掲げてみせました。
まさに、そこにも透明なシートに描かれた〈アート作品〉が存在しました。
それを見た瞬間、アメリカの抽象表現主義の代表的な画家ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912年 – 1956年)を想起しました。
彼の特長的な画法であるアクション・ペイントです。
具体的なものを描くというより、描くという行為そのものを強調したというのでしょうか、計算されて彩色をするのではなく、絵の具を垂らしたり、飛び散らせたりと、今回子どもたちがやっていたような行為に近いものです。もちろん、これは感じるひとそれぞれの見方ですから、必ずしも誰もが彼を想起するとは限りませんが。
もっとも、子どもたち自身がこんな見方をする必要はありませんし、それに気づかなくてもいいのです。
クラフト用紙に収まった自分を、客観的に見つめる作品に
年長クラスの子どもたちには、床に敷かれたブルーシートの上に透明なシートではなく、ロール状のクラフト用紙を同じ長さに2枚カットして並べて貼り合わせました。
子どもたちはその周りに座って先生からの説明を待ちます。
先生は年中クラスの子どもたちとはまったく違うアプローチの仕方から入りました。
まず先生は絵の具のついた筆を持ちながらそのクラフト用紙の上をゆっくり歩きはじめて、急に歩いていた足を止めるとその自分の足のかたちを筆でなぞりました。
その足を外すと、そこにはくっきりと先生の足あとが残ります。
またもう一歩踏み出してその足を止め、同じように自分の足のかたちを筆でなぞりました。
またその足を外すと、先生の足あとは2つになりました。
それから今度は少しおおまたでもう一歩先に踏み出して、同じように筆でなぞりました。
クラフト用紙の上に先生の歩いた通りの足あとが残っていきます。
今度は目の前の子どもを呼んでクラフト用紙の上に立たせました。
そして先生は、同じようにこの上を歩くポーズをしてねと言って、歩き出すポーズの姿勢をとった状態でマネキンのように止まらせて、また絵の具のついた筆でその子の足のかたちをなぞりました。
何歩か同じように足のかたちをなぞり、ほかの子どもの足あともそこに重ねていきました。
ここまでやれば、もう子どもたちへの説明は不要です。
各自が絵の具のついた筆を1本ずつ持って、クラフト用紙の上を自由に歩きまわりながら自分の足あとを残していきました。
あっという間にクラフト用紙の上は子どもたちの足あとだらけになりました。
そのうち自らの足の裏に色を塗って押し当てたり、足あとだけでは飽きたらなくなったのか、両手のひらをなぞったり、まったく別の模様を描きはじめたり。
ここでも先生は年中クラスの子どもたち同様に、主だった指示を与えません。
それでも子どもたちはやはり、自らの両手、両足を彩色しはじめ、またしてもカラフルなボディペイントが展開されました。
アプローチの仕方こそ違えども、たどりつくところは同じようです。
また、年長クラスはクラフト用紙そのものが〈アート作品〉となるよう、あらかじめ意図してはじめているので、この時点でりっぱな作品として仕上がっています。
でも、先生は再び一段階アップさせる仕掛けを用意していました。
これだけでもこの作品のなかに子どもたちの存在は認められますが、ひとりひとりがより明確にその存在を残せるようにと考えたのです。
そこで全員をクラフト用紙の外に出るように言うと、ひとりの子どもをクラフト用紙の上に座らせました。
そして今度はその座ったままの態勢を黒色の絵の具でかたどりました。
子どもが立ち上がると、その子の座ったあとがくっきりと残っています。
これを見ならって、それぞれが好きな場所に座るなり、あおむけに寝るなり、横向きになるなり、全身がそのクラフト用紙の上に残るように指示して、先生や保育士がその子どもの姿を黒色の絵の具でかたどっていきました。
こうして参加した子どもたち全員が、なんらかのかたちでクラフト用紙のなかに収まりました。
「あれ、ぼくだよ」
「真ん中にあるのはわたし」
「はじで寝てるの、だーれ?」
クラフト用紙の外から眺めた子どもたちは、誰もが客観的に自分を見ています。
それって、とても不思議でおもしろい体験です。
この作品を見て、やはりアメリカの画家キース・へリング(Keith Haring、1958年-1990年)を想い出しました。今でも彼の作品はよく見かけるのでどこかでご覧になっている方も多いかと思いますが、特に彼の絵に登場する黒色の輪郭線だけで描かれたひと型は有名です。でも、それよりももっとリアルで、いきいきとした躍動感を感じました。
この作品は、最後に園のエントランスに設けられた図書スペース前にある大きな黒板に展示されました。
自分自身の痕跡を客観的に見つめ、そこから何かを感じてくれたらいい
「今回は年中・年長それぞれに応じた展開を想定しました。
年中クラスには〝海〟のイメージからどれだけ自分たちでそのイメージを広げていけるか、または壊していけるのか。
年長クラスは足の動き(軌跡)をたどっていくという地味なスタートから、自らの考えでいかに次の段階へと大きくステップアップしていけるのか。
ひとつのきかっけを与えれば、あとは年齢や経験相応によって自ずと発展させていくものだと思っています。
そして、それについておとな(指導者)は余計な口を出さずに静かに見守ってやらせること。
そうすることで、予期せぬ成果が得られるんじゃいか。
とくにアートという分野のことで言えば、これもひとつの指導方法として有りだと考えています」
そう話しはじめたのは松澤先生です。
確かに先生が何も言わないうちに、連鎖的ではありますが、子どもたちはいつの間にか自らのからだに絵の具を塗りはじめていました。
それについても先生は、歴史的な事象などを交えてこんなふうに語ってくれました。
「自らが、自らのからだに色を塗るって、もともと人間のなかに在るものかもしれません。
身体装飾という言葉がありますが、旧石器時代のネアンデルタール人から古代エジプトあたりまで遡ってみても、身体装飾を施していたという歴史が残されているようです。身体装飾は髪を結ったり、宝飾品を身に付けることもそうですが、顔やからだに彩色、つまり化粧などをするのもそうです。
それらは当時、美意識のためだけではなく、呪的や通過儀礼、または階級や権威、同族の証なども目的にしていたといいますが。自らのからだに彩色していたことは紛れもない事実です。いまでも原始社会では、ボディペインティングの原点を見ることがあります。
そういう意味からすると、子どもたちの方が私たちおとなよりよほど人間の本能に従って、純粋に、かつ人間らしく生きているのかもしれませんね」
また先生は最後に今回のワークショップを振り返り、
「アート作品をつくるって、ある意味そこに作家(製作者)の存在を残す行為ではないかと思います。
あきらかにその時間、その場所に、その作家は存在していたということを証明するようなものではないでしょうか。時間や時代を超越して、その作品が消滅しない限り、そこに刻まれた作家の存在は残っていきます。
今回最後に完成させた作品は、いずれも創作したその子がそこに投影されています。
子どもたち一人ひとりが自らの身体を使って、この時間に生きて動いた痕跡を確実に作品のなかに残したということです。
それを子どもたち自身の意思で客観的に見つめることができれば、必ずそこから何かを感じとってくれるはずです。
仮にそれが何十年か先であっても、夢中になってアートに没頭していた自分が確かにそこには居たんだという事実を想い出すなり、気づいてくれたら、きっとその瞬間に違う自分が見えてくると思います。
そう考えるとこのワークショップは、子どもたちの未来のいつの日か、この過ぎた過去を取り戻すための手段のひとつとして布石を打っているようなものかもしれませんね」
と遠い先に視線を向けながら話しを締めくくりました。
ドキュメンテーション
written by OSAMU TAKAYANAGI