『顔』のもつ独特な魅力を、思い思いに表現してみよう!
今年(令和5年)3月、厚生労働省は〈マスクの着用は、個人の主体的な選択を尊重し、個人の判断が基本〉との方針を打ち出しました。
当園でもそれに準じて、保護者・来園者及び職員に対して同様の措置をとってきました。
しかし、およそ3年という長い期間にマスク着用が習慣化してしまったのか、マスク生活から解放された当初は、はずすことへの抵抗がありました。
それでも時間の経過とともに、この夏には若い世代を中心にマスク無しの生活に戻りつつあります。
そうしたなか、笑い話しのようで、ある意味切実な問題が生じていました。
それはニュースなどでも採り上げていましたが、3年間という長きにわたり互いにマスク姿でしか接してこなかった者同士が、待ち合わせにしても、偶然すれ違っても、互いに気づかずにあたふたしたというのです。
なんとか気づき、互いの顔を見合わせた瞬間、「はじめまして」と今更ながらあいさつを交わしたという話も聞きました。
こうなると、まさにお笑いのコントですね。
たかが縦約10cm×横約15cmほどの布で鼻先と口元を覆い、発する声も布越しで多少こもるとはいえ、それだけでひとの『顔』が判別できなくなるとは想定外でした。
こうした現状に、にじいろワークショップを企画・指導する松澤先生は、あらためてひとの『顔』とはなんだろうか、と考えたそうです。
自分のからだの一部でありながら、生涯自らの目で直接見ることができないものであり、喜怒哀楽に応じてその目、その口、そのすべてが変化し、それが相手に対して笑いや涙、ときには怒りを誘うという、これほど重要な部位はありません。
そして、それがあることで、常に互いを認識し合うこと、また好きや嫌いになることもあるのですから。
そんなことを考えていたある日、松澤先生はプライベートで「古代メキシコ展」を訪れ、そこで『顔』のもつ独特な魅力に気づかされたそうです。
「展示品のなかに古代の顔を模った仮面があって、その迫力または愛らしさに魅了され、それをずっと見ていたら、日本の古代の仮面にも通じるものがあるように感じたのです。
そう思ったら、人間って、国や人種に関わらず、太古より顔を意識し、顔を描き、顔をつくり、そこに呪術や祭事、芸能などといったさまざまな物語を語りつないで来たのだなぁ、と実感しました」
先生は感慨深げに、こう話してくれました。
そこで今回のにじいろワークショップは、マスクはずしの今とも重なる、『顔』をテーマに展開するアートワークとなりました。
もちろん子どもたちには先生が着目したテーマにある真意などは伝えませんが、子どもたちそれぞれが思い思いの『顔』を表現していくことで、自ずとなにかにたどり着くはずです。
段ボールの顔型キャンバスに、塗って、貼って、そこに描かれたのは・・・?
まずは創作の準備です。
不要な段ボール箱をいくつか用意し、箱を形づくる平らな面を切り離していきます。
それを子どもたちの人数分確保したら、その1枚1枚に均等の大きさで顔型の円を描き、ハサミで切り抜いていきます。
そうして出来上がった顔型の厚紙(段ボール)が、今回の重要なキャンバスになります。
次に、絵の具の黒・茶・黄・緑色を溶き皿にそれぞれ取り分け、さらにそこへ木工用ボンド(白色)を加えます。ボンドが加わることで、色が素材に定着しやすくなるとともに、素材と素材を貼り合わせることができます。
さらに素焼き調ねんどを用意しました。
これは、凹凸のある眼球や唇、最も突起している鼻などを表現するためですが、必要な分だけ指先でちぎれますし、簡単に好きなかたちに変わるので子どもたちには最適な素材となるでしょう。
また、先ほど顔型を切り抜いた段ボールの切れ端部分も素材として活用しました。
これでもろもろの準備が整いましたが、これらを見ればすでにおわかりのように、今回は平面を土台に創作していきますが、仕上がりは実際の『顔』を意識した、立体的な表現を目指して進めていきます。
では、いつものように年中クラスからスタートです。
今回は最初にプロジェクターを使い、スクリーンにさまざまな『顔』を映し出してワークショップをはじめることにしました。
一番に映し出されたのは、猫の顔写真です。
そのとき、先生は意図的に猫のお面をかぶりました。
これは本題への伏線ですが、子どもたちにはそんな説明をしないので、先生のその行為にただただ笑いが巻き起こりました。
そしてスクリーンにはいくつかの動物の顔写真が続き、やがてひとの顔に変わり、最後は古代遺跡から発掘された仮面が映し出されました。
ひと通りそれらの映像を投影したところで、先生は
「今日は、いま見てきたような『顔』をみんなにつくってもらいます」と告げました。
ところが年中クラスの子どもたちは、そう言われても・・・と、困惑気味の表情を浮かべるばかり。
でも先生は心得たものです。
最後にスクリーンで見せた古代の仮面のようなお面を取り出し、目の前の子どもの顔にかぶせてみました。
スクリーンから抜け出たようなそのお面に、びっくりしながらも興味津々の様子。
先生はすかさず、
「こんなお面をかぶったら、どんな踊りをするかな」と問いかけました。
すると、その子もとっさになにかを感じたのか、自らお面をつけて奇妙なリズムを刻みながら踊ってみせました。
それを見たまわりの子どもたちは大笑い。
それからいく人かの子どもたちがそのお面をかぶって、同様に即興で踊りました。
「こんなお面をつくりたくない?」と先生が再び問いかけると
子どもたちは一斉に「つくりたい!」と大声で答えました。
回りくどい説明は不要です。
先生はこうして、子どもたちをいつの間にかその世界にいざなっていきました。
さて、ここからかが本題です。
先生は子どもたちをフロアーの端に集めると、顔型に切り抜いた厚紙を1枚床に置き、お皿に溶かれた絵の具と筆を巧みに使って、ちょっとマンガチックな目、鼻、口、眉毛などをそこに描き出しました。
またそれぞれの部位に対して、段ボールの切れ端を貼り付けて髪やヒゲにしたり、ねんどで目や鼻の位置に盛り付けて立体的にするなど、さまざまな技法を見せていきました。
そのおもしろさを間近に見ていた子どもたちは、もういてもたってもいられません。
ひとりひとりが顔型に切り抜いた厚紙を手にしてそれぞれのテーブルに戻ると、誰もが一気に創作活動に没頭していきました。
かっと見開いた目を強調する子や、りっぱな鼻にそのまわりをひげだらけにする子。
下地が見えなくなるまで顔全体をいろいろな色で塗り込める子、段ボールの切れ端をツノのようにいく枚も頭部へ貼り付ける子もいます。
ついには、これってひと?動物?はて・・・??と疑問符だらけのような『顔』をつくる子などなど、もはやおとなの想像をはるかに超えた表現があちらこちらで見られます。
こうなると、ホールのなかは子どもたちの起こしたアートの嵐がぐるぐる吹き回って、それをのんきに眺めていたら、あっという間に外へ押し出されてしまいそうな雰囲気です。
理屈ではなく、純粋に子どもたち自らが到達した特別な世界
年長クラスのはじまりも、プロジェクターを使ってさまざまな『顔』を映し出すことからはじまりました。
ただし年長クラスの子どもたちは、見終わるとすぐにフロアーの隅に集まり、先生から創作についての具体的な技法などの指導を受けました。
特に下地をしっかり塗ることを奨励しました。そのことで、段ボールという素材観から離れ、新たな発想が生まれやすくなるからです。
先生は年長クラスの子どもたちについてこう話します。
「この子たちは一年半という経験値があるから、はじまりだけきちんと説明して、肝心なところだけをフォローすれば、あとは最後まで子どもたちに任せてもいい、むしろその方が、こちらが想像するよりもはるかにおもしろい作品にたどり着くと思っています。
子どもたち自身にとっても、そうしてたどり着いた作品だからこそ、新しい自分を発見できることがいっぱいあるんじゃないかな」
年長クラスの子どもたちは、はじまりこそあらかじめ予想した通りの仕上がり具合いでしたが、つくり込むうちにそれぞれに個性的な表現が目立ちはじめました。
ついには、ひとりひとりの『顔』がまったく予期せぬ方向へと動き出し、色もかたちも総体的な表現も、目を見張るほどの作品へと変貌していきました。
結局、年中・年長クラス共に最後にたどり着いた作品は、1枚たりとも予定調和のものはなく、意外性に満ちた多種多様な『顔』となりました。
もちろん作品づくりの過程において、その技法や素材選び、全体の構成など細かな点では年中クラスと年長クラスに差が生じるのは仕方ないことですが、それは年齢による経験の差であって、本質の部分ではどちらも評価は高いものです。まあ、アートに関していえば、誰かの評価など無意味なことですが。
そしてワークショップの終わりは、年中・年長クラス共に作品を1カ所に並べて展示し、それをみんなで眺めました。
自分の作品を客観的に眺めることで何かを感じ、またお友だちの作品を見て何かを感じる、さらにそれら全体から大きなものを感じとる、それが一番大事なことではないかと思います。
そこで先生は年中・年長クラス共に、もうひとつだけ子どもたちにこんな提案をしました。
「ここに並べた作品は、まだ絵の具が乾いていないから展示したままにするけど、もし自分が自分のつくった『顔』をお面としてかぶったら、どんな踊りをするのかな?頭のなかで想像して、踊ってほしいな、どうかな、できるかな?」
子どもたちはそんな先生からの突飛な提案に最初は驚いていましたが、そのうちひとり、またひとりと自分の作品を頭に描きながらドタバタ、クネクネ、フラフラと楽しそうに踊りはじめました。
気づけば踊りは全員にひろがり、それを見ていた先生までもが大げさな振りで子どもたちの輪に加わっていきました。
年中・年長クラス共に同じように飛んだり、跳ねたりの大さわぎです。
その光景は、まさに仮面をつけて神事や祝いの儀式のために踊り出した古代人のようでした。
そうこうするうちに、ひとりひとりの子どもの顔に、無いはずの「顔」のお面がいつしか見えてくるから不思議です。
きっとこの瞬間、子どもたち誰もが、ところ狭しと並んだたくさんの『顔』がつくり出した特別な世界に、こころから入り込んでいたのかも知れません。それは理屈ではなく、純粋に、自分たちがつくり出した『顔』に自らインスパイアされたからこそ到達した世界だったのではないでしょうか。
人間として生きる以上、無意識に作品がプリミティブになる
当初、『顔』という漠然としたテーマに子どもたちはどう対処していくのだろうか、または対処できるのだろうか、と少し不安な気持ちを抱いていましたが、最終的な着地点を見て、まさに〝下手の考え休むに似たり〟と反省しきりです。
それではここで、松澤先生からの総括及び感想を聞いて本稿を閉じることにします。
「今回は敢えて、誰かの『顔』を描くというテーマにはしませんでした。だから自画像ともちがいますし、目の前の相手(友だち)を描いたわけでもありません。
誰もがおそらく潜在的に持っているだろと思われる『顔』のイメージを、具体的なかたちに表現したらどういうものが出てくるのか、という試みでもありました。
結果、年中・年長クラス共に誰もが、みごとに自分のなかの『顔』をつくりあげてくれました」
そう語った先生は、さらにこのようなことに言及しました。
「子どもたちの完成された『顔』を見てハッとしたのですが、ここに並べられたどの作品も突き詰めていうと古代から脈々と受け継がれてきた仮面に残されてきた『顔』そのものなんですね。
無意識に創作を進めるうちに、作品がどんどんプリミティブ(原始的な、根源的な)になっていった。
そこで確信したのですが、これって、人間だけがもつ『顔』に対する認識であり、本質ではないのか。
地球上のあらゆるひとは、人間である以上、何百年、何千年とどれほど社会や時代が進化しても、この認識だけは変わらないといえるんじゃないかって。
それから最後、仕上がった『顔』の仮面をかぶったと想定して、それを思い描きながら踊ってほしいと提案したら、誰もが躊躇することなく奇妙な踊りを披露してくれたでしょ。
それもある種、『顔』という仮面が成せることであって、多分太古のひとたちも、そうやって仮面をかぶった途端に踊り出したのかもしれない。
そんな風にいろいろと考えてみたら、本当に『顔』って奥が深くて、不思議なものです」
先生の言葉を聞いて、十年ほど前に遡りますが、こんなニュースを想い出しました。
それは2013(平成25)年5月、奈良県の大福遺跡で2世紀後半のものとみられる〈木製の仮面〉が見つかったというものです。調査の結果、木製としては国内最古の仮面だということでした。
確かに、今回の子どもたちの『顔』はそれに類似しているといっても差し障りがないように思えます。
人類が誕生してわずか2世紀につくられた『顔』と、21世紀のいまを生きる子どもたちが表現した『顔』。
こんな壮大なアートワークを感じることができるワークショップって、そうそうありませんよね、
ドキュメンテーション
「顔」をテーマに
3年続いたマスク生活が終わりを迎え、おとなたちもマスクをはずし、「顔」が見えるようになりました。
マスクで顔が隠れている状態が長期的になるにつれて、幼少期の子どもにとっても顔が見えないことを懸念することが話題になることもありました。
実際には影響が出てくるかわかりません。しかしながら、久しぶりに見る顔に親しみを覚えたたり、その表情にハッとすることがあります。
古代メキシコ展に行きましたが、そこで見る仮面の顔の迫力や可愛さ、それは日本の古代の仮面にも通じるものがあります。人間は太古より顔を描き、顔をつくり、そこに祈りや物語をのせました。
顔って面白い、顔が見えるいま、顔について制作してみます。
written by OSAMU TAKAYANAGI